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いごこち

崔 友本枝

今日の心の糧イメージ

 若いとき、姉のように親しい友人と、教会の信者さんの家や、入院中の人を訪ねて病院訪問をよくした。

 その頃、ある精神科の病院が、患者の癒やしの一環として、司祭を呼んでミサを捧げる日を設けていた。誰でも行ってよかったので私も友人と参加したことがある。読まれた聖書は、旧約のイザヤ書42章だった。(参 1~7)

 「見よ、わたしの僕、わたしが支える者を。わたしが選び、喜び迎える者を。(中略)彼は叫ばず、呼ばわらず、声を巷に響かせない。傷ついた葦を折ることなく 暗くなってゆく灯心を消すことなく 裁きを導き出して、確かなものとする。(中略)見ることのできない目を開き、捕らわれ人をその枷から、闇に住む人をその牢獄から救い出すために」。

 ここに登場する「僕」とは、新約聖書では、救い主イエス・キリストのことだと解釈されている。朗読の後、神父さまは解説ではなく、ご自分の気持ちを分かち合ってくださった。シーンとした落ち着いた部屋で10数名の人が耳を傾けていた。温かい神父さまの声が響いた。

 「私は、『傷ついた葦を折ることなく、暗くなってゆく灯心を消すことなく』という箇所に心が惹かれました。葦は、弱く折れやすいものです。でも折れかかっているからといって折ってしまわず、また、ろうそくの灯が消えかかっているからと消してしまわない人がここに描かれています。私はこのように、傷ついた人に温かく接することのできる司祭になりたいと思います」。

 もう40年も前のことなのに、鮮やかにこの日のことが心に残っている。平和に満ちた居心地のよい空間だった。神父さまが傷ついた人と共におられるのがよく伝わってきた。