華道というものを私は知らない。華道についての本を読んだこともない。
しかしある夜、おそくまで仕事をしていた時、しいんと静まり返ったなかで、かすかだが何かが崩れるような音がした。その音は実際、耳にきこえたというより、体に感じられたと言ったほうがよかった。書棚においた花瓶の薔薇の花がくづれたのである。
私はその時、これが日本人独自の華道の本質だろうと思った。
切り花、それはうつくしく咲いた花がやがては静寂の中で崩れることを豫想している。花がうつくしければうつくしいだけ、そのはなびらがいつかは崩れる瞬間をその内にはらんでいる。死をふくんだ美。それが日本の華道なのだろう。
今年も春がきた。私は庭に昨年うえたさまざまの草が芽をだすのをみた。昨年の春、水仙やヒヤシンス、薔薇はあかるく、まぶしい花々でわが庭を飾ってくれたのであるが、もちろん、秋がくると枯れ、冬が来て死んでしまった。しかしふたゝび、こうして春が訪れると、今、復活しようとしている。同じ茎、同じ枝からあたらしい花を咲かせようとしている。みづみづしい生命力がふたゝび花をよみがえらせようとしている。
切り花が死をふくんだ美しか花に与えないのに、根をもった植物はこうした復活の美をも花に与える。私はそのちがいに日本の華道の独特さと同時に狭さを感じる。日本の美のある限界を感じる。
私は息子に今年、五坪ほどの地面をやった。彼はそこにキュウリも、パンジーも朝顔もトウモロコシも滅茶苦茶にうえた。一日のうち一度はじっとその前でしゃがみ、まだ芽が出てこないかと待っている。
私は彼がそれによって「育てる」ことの楽しさを学ぶことを期待している。草花は決して人間を裏切らぬ。こちらが努力したその分だけのうつくしい花を咲かせてくれる。それがたのしい。
(存命中に書かれた原文のまま)