子どもたちが、二人、三人と集まると自然と笑顔がこぼれます。なぜ子どもは喜びにあふれているのでしょうか。「子どもだからだよ」といえばそれまでなのですが、神さまは、喜びに生きる秘訣を、すでに子どものときから授けておられるように思います。
一年生の子どもたちを見ていると全然飽きません。笑っていたかと思えば泣き出す子もいるし、にわかに怒り出す子もいます。
「やったー!」「なんで!?」「いやだ!」と、嬉しいことも、悲しいこともすべて顔に声に体にあらわします。そのようにして、子どもたちは、神さまとも語り合うことができるようです。
成長するにつれて、子どもたちも感じたことをそのままあらわすことは少なくなります。自分の思いをそのまま表現することは恥ずかしいことだとだんだん感じ始めます。
そうして、神さまと語り合うことも忘れてしまうのかもしれません。
震災後の石巻で、ボランティアとして傾聴喫茶を訪れたとき、その運営をしていた女性と話をする機会がありました。気丈に見えていたその方は、津波によって多くを失っただけでなく、様々な行き違いから夫を信頼することが難しくなってしまったと、なかなか人に話せなかった心の叫び、深い悲しみと悔しさ、虚無感を、わたしたちに率直に分かち合ってくれました。ところが、最後には、意外なことに「聴いてもらって少しずつ生きている実感が湧いてきた。なんとかやってみるわ」と言いました。
子どものように、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか!」(マルコ15・34)と叫ぶイエスさまのように、あきらめず、まっすぐに叫びをあげる人のうちに、ふたたび喜びに生きようともがく魂が見え隠れします。