彼岸になると花をもって、私は母の墓をたずねます。墓に水をかけ、花をそなえ、手を合わせーーそうした訪問をやりはじめてからもういく年になるでしょう。
墓參りがすむと、私は墓地のなかをゆっくりと歩きまわります。見知らぬ人の墓、つい最近、だれかが詣でたのか、まだ新しい花束の捧げられている墓、苔むして見棄てられた墓、木の香もあたらしい墓標、ふるい昔に死んでしまった人の塚、それぞれの墓にはそれぞれの名と死去の日が刻みこまれている。
私はたちどまり、その一つ一つの土の下に眠っている人の人生を考えます。もちろん、私はその故人に会ったこともない。その人の顔も知らぬ。その人の人生を私が横切ったこともない。
にもかかわらず、私の人生に今日までさまざまの悦び、さまざまの失意、さまざまの倖せ、さまざまの悲哀があったようにこの一つ一つの墓の奥にはながい人生がかくれている筈です。彼等は生きている間、私と同じように愛したり、夢見たり、挫折したりしながら死を一歩一歩、迎えていったのでしょう。
夕暮、彼岸詣での人々が引き上げたあと、墓地には一瞬、言いようのない静寂がたゞようことがある。その静寂は生きていることが完了した瞬間の静寂さでしょう。一匹の白い犬が墓と墓の間を少しよろめきながら通り過ぎていく。
いつか、自分もこゝに埋められるのだなと私は考えます。その時、ふしぎに死というものはそれほどおそろしくないような気さえします。自分の人生がーーたとえば秋の午後の果樹園のように、熟れた果実となって木の枝から離れるならばーー。しかし、そのような人生を送ることは何とむつかしいことでしょう。少なくとも、まだ青いうちに、私は枝からもぎとられないことだけを願う。
墓地というものは、ふしぎに我々に色々なことを考えさせるが、それは何故でしょうか。
(書き下ろし元原稿のまま)