森の散歩は私の心を鎮めてくれます。いつもの散歩コースなのですが、古くからある神社の長い階段を昇り詰める頃は喉が渇いてきます。しかし、その風景は荒ぶれた私の心に静かな落ち着きと喜びを泉のように湧き立たせてくれます。
毎日のテレビや新聞のニュースは恐ろしい殺戮、憎悪、哀しい報道ばかり。もし私の心に愛である神様への信仰が無かったら、とっくの昔に健康を害していたに違いありません。私の信仰は、困ったときの神頼みばかりですが、それでも私の心の渇きは癒されていきます。
さて、少年時代からの心の渇きを色々思索していきますと、私には特徴があるようです。どんな時に渇いてくるかと云いますと親や兄弟をわがままから信用しなくなった時、青春時代での罪悪感、20代での職業選択、40代初めの自己混乱感、経済的に順調な40代から50代にかけての停滞感、60を超えたころからの絶望感、これらの処理に混乱があった日々の渇きは本当に暗いものがありました。
困ったときの神頼みでしたが、それでも一人御聖堂で祈る時とか、親友に心の内を遠慮なく語りつくしますと、自然に元気が出てきました。親友や仕事上の数名の方々の友情、家族の愛情にしみじみと感謝したものです。
こうした自分の成長の歴史を、自然の森や太陽、月や星空を見ながら思索していきますと、これからの希望や生きる目的、知恵が泉のように湧き出してくるのが不思議です。この精神作用はどこから生まれてくるのでしょう?。年齢にも関係しているのでしょうが、何と言いましても親しい人々からの暖かい心が最高でした。いつも黙って聞いてくれる家族や数名の方々の存在は私の人生での宝物です。