皆さんも日常の生活の中で、汗水を垂らすほど、働いたことや運動したことがあるでしょう。すると水分が不足して渇きを覚えます。
私は旧制中学の時、陸上競技部に入っていました。長距離にしろ、中距離にしろ、短距離にしろ、全力で走ると、必ずのどが渇いて水を飲みたくなります。当時は運動中は水を飲んではいけないという、間違った指導がありました。それで、走り終わった後は、こっそり隠れて水を飲んだものでした。
今は、運動中、のどが渇いたら、適当に水を飲みます。水は体にとってとても大切なものなのです。
同じことは、私たちの霊魂についても言えます。霊魂は、神に飢え渇いています。それを普段の生活の中で経験しないのは、心身のエネルギーを毎日の生活や仕事や活動などで消耗しているからです。
神さまに対する飢え渇きを経験するのは、特に瞑想のような "行" に専念している時です。無念無想とはいきませんが、日常から離れ、一切の執着や雑念から離れて、無や空の状態になると、何とも言えない魂の渇きを感じます。それはたとえば、深い心の平安とか、在ることの喜びとか、神さまに愛されているという感情とかを覚えるとき、神への渇きを深く感じます。
そういう体験をすると、清貧と奉仕の生活を実践したアシジの聖フランシスコの祈り「わが神よ、わが総てよ」と叫びたくなります。
余談ですが、以前、アッシジに旅行したとき、広大なウンブリア高原が眼下に見えました。その感動を胸に丘を降る途中、中世の名残がある家を見つけ、(あ~聖フランシスコの家はこんなだったのかもしれないな)と、当時の彼に思いを馳せたことがありました。