人間の身体の3分の2は水です。身体から水分がなくなると、人間はカラカラになって生きていかれません。
心にも水分があるだろうと思います。それは、「祈り」かなと思います。
小学生たちとロザリオの祈りをした後で、「みんな祈っているときは何を考えてるの?」と訊いてみました。すると、窓からの光が眩しかったとか、いつ終わるか考えていたとかいった声が上がる中で、案外多いのが「何も考えていなかった」という答えです。そんなに祈りに集中していたのかと感心してしまいます。
皆さんは祈るとき、どんなことが心に浮かんでくるでしょうか。ひょっとすると、静謐に満ちた聖堂で祈っていても、心の中では雷鳴轟くということもあるかもしれません。でも、祈り続けていると、渇きが満たされる瞬間があります。特にそう感じるのは、ふと、誰かが祈ってくれていることに気づくときです。
「祈ってるよ」という言葉は、それだけでは役に立たないと思う向きもあるかもしれません。でも、その言葉だけで十分なときがあります。
都会に引っ越して、カラッカラの心で日々を過ごしていた中学生のとき、新しく通い始めた教会の神父様が「祈ってるよ」と言ってくれたと母から聞いたことがありました。その、直接でもなく母づてに言われた「祈ってるよ」が、不思議と今もわたしの渇きを潤してくれます。
乾いた粉に水を加えて練り上げると、粉がつながってパンになるように、渇いた心に祈りが染みわたると、心と心がつながってひとつのパンになります。祈るときに何を考えているかというより、ただ祈ってもらうこと・祈ることが、生きる喜びと勇気を与えるパンとなるのです。