何かを強く求める時、何かが不足していて、生き難いほどである時、「渇く」と表現することがある。聖書ではよく読める言葉だが、子どもの頃は、大げさすぎると感じたものだった。子どもの感覚では、魂が声を上げるほどの苦しい望み、などは理解できなかったのだと思う。
人は人生の続く限り、求めてやまない生きものである。そして、ほとんどの人が、自身の奥底が満たされず、心の渇きに悩まされたまま日々を送っているように見える。
私の知人に、愛されて特別扱いされたいという気持ちの強い人がいる。魅力のある人なのだが、他人に愛情や奉仕を要求し、自分からは何も差し出さないので、結局、人々は離れて行ってしまうらしい。
愛とは清らかな真水のようだと言えよう。渇いた人が飲んで生命を潤すものだ。知人のように、強要して得た偽物の愛情は濃い塩水に違いない。いくら飲んでも、喉が渇く一方なのだから。
ただ人生の難しいところは、塩水がよい、という場合があることだ。人間の身体が塩分を欲するように、心が少しの嘘を必要とすることもあるのだろう。知人も案外、本物の愛などこの世にはない、偽物でよいなどと考えているのかもしれない。
だが私たちは幸いなことに、愛されるにはまず、愛するのだということを知っている。誰かに愛情を注いでも、自分が尽きることはなく、むしろ湧き出る泉のようになることを知っている。それで心の渇きは癒されるのだ。
私たちは渇き求める者だ。そして同時に人を癒し、自らも癒される者でもある。だから小さいけれど、湧き出ていよう。そして清らかに澄んでいよう。