どこを/断ち切っても/うつくしくあればいいなあ
八木重吉の、『ねがい』という詩です。彼は、29歳で肺結核のために亡くなります。しかしその後、彼を追うかのように、長女桃子は15歳で、長男陽二は16歳でこの世を去ります。美しくありたい――この彼の憧れは、同時にまた、彼の心の渇きでもありました。あるいはそれは、希望と言ってもいいかもしれません。
どうしたら、私たちは、彼のような憧れを抱くことができるのでしょうか。おそらく、それは、余計な虚飾を振り払い、単純に自分の憧れに対して心を開くことによってではないか、とそう思います。そのような思いを、詩編は、次のように語ります。
「谷川の水を求めて、あえぎさまよう鹿のように、/神よ、わたしはあなたを慕う。/わたしの心はあなたを求め、神のいのちにあこがれる」。(42・2)
イエスは、十字架上でこうつぶやきました――「渇く」。(ヨハネ19・28)彼は、いったい何に対して渇いていたのでしょうか。かつて彼は、こう語りました。
「わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである」。(ヨハネ6・38)その御心とはすべての人が、永遠のいのちに与ることにほかなりません。
イエスの人生は、ひとえに、この渇きを潤すことへと向けられていました。真の渇きは、単なる欠乏ではありません。むしろそれは、私たちに、真の生きる意義を与え、それに向かって歩む静かな力を与えてくれるのではないか、とそう思います。
八木重吉はまた、次のように語ります――「どうせ短い命/出来る限りうつくしい心でいよう。」
そして私たちは、祈ります――「神に、いのちの神に、わたしの魂は渇く」(詩篇42・3)