[谷川の水を求めてあえぎさまよう鹿のように 神よ 私はあなたを慕う]。
典礼聖歌集の中に詩編42をもとに作られた聖歌があります。とても美しいメロディーのせいか、この聖歌を聴くと、美しい川の流れのほとりで一頭の鹿が穏やかにのどを潤している姿をイメージしてしまいます。
しかし、本当はのどの渇いた鹿が水を求めて山を下り、谷川まで来たのに一筋の水も見出せず、喘ぎさまよっているのです。もし鹿が言葉を発することができたなら、「神様、のどの渇いている私に水を与えてください」と祈ったでしょうか。
私も一修道女ですが、時に「神様あなたはどこにおられるのですか」「どうぞ早く応えてください」と嘆き訴えたくなるような時があります。まさに、水を求めてさ迷い歩く鹿のような状態です。神様を求めてもなお応えのないもどかしさ、虚しさは、いつしかあきらめとなって私に別なものを求めさせようとします。
十字架上でイエス様は「渇く」と一言発せられました。(参 ヨハネ19・28)イエス様のこの言葉は、十字架上の死に打ち負かされた諦めの言葉ではなく、御父への信頼の言葉でもありました。水を求めてさ迷い歩く鹿が決してあきらめなかったように、十字架刑という壮絶な苦しみを味わったイエス様の天の御父への信頼も変わりませんでした。
私たちの人生は喜びや楽しみに満たされた日々だけではありません。時には苦しみもがく日もあります。人生の中で感じる「渇き」。
たとえ絶望的な状況にあっても、十字架上のイエス様と共に「渇く」と天の御父へ向かって叫ぶとき、失いかけていた御父への信頼をまた、もう一度取り戻せそうな気がします。