(今日のお話は遠藤周作さんがご存命中に寄稿されたお話です)
踏絵というのは、言うまでもなく切支丹の迫害時代に、信徒たちを調べるため、役人がつくった物です。白木の中に基督や聖母マリアを描いた銅板をはめこみ、それを信徒たちにふませる。ふんだものは信仰を捨てたと見なしてこれを許し、ふまぬものは教えを守るものとして處罰するという手段です。井上筑後守という当時の役人の談話が今日も記録に残っているわけですが、それを読むと、こういう踏絵にたゝされた信徒の苦しみがよくわかって、実に悲痛な気持がいたします。
私はいくつかの踏絵をみましたが、長崎で偶然、目にした踏絵には木の上にくろずんだ足の指の痕がのこっていました。その足の指はもちろん、この踏絵をふんだ人の指痕です。人々に幾百回、幾千回と踏まれた基督の顔は凹み、すりへって、そして哀しそうでした。
しかし、私はこれをふんだ人の足も随分つらかったと思います。もちろん大部分の人はそれを平気で足にしたにちがいない。しかし少なくとも信徒である者は、この踏絵に足をかけることに、心と共に体の痛さを感じたでしょう。自分がそんな強者ではないゆえに、おのが弱さや拷問への恐怖、家族への配慮、そんないろいろな悲しい理由で、足をかけたのでしょう。
黒い足指のあとには人々のせつない気持がこもっているような気がしました。私はその時、凹み、すりへった基督の顔がまた、こういうように言っている気がしました。
「早くふむがいい。それでいいのだ。私が存在するのは、お前たちの弱さのためにあるのだ。」
そして彼等弱いもののために基督は足をかけられた。いや、そういう弱い人のために基督はこの世に来たのだ。そんな感じがしたのです。
小説家私は踏絵を感動なしにみることができません。じぶんも一つ手にして毎日ながめたいと思っているのですが、こればかりは手に入らぬのです。
*(書き下ろし元原稿のまま表記)