「ゆるすということはむずかしいが、もしゆるすとなったら限度はない、――ここまではゆるすが、ここから先はゆるせないということがあれば、それは初めからゆるしてはいないのだ」と、山本周五郎は、小説「ちくしょう谷」の中で語ります。この言葉は、聖書の中で語られる真の赦しと重なります。
聖書によれば、真の赦しは、「7の70倍赦しなさい」と語られるように無条件です。(参 マタイ18・21~22)また、シラ書は、他人の罪を赦すことと自分の罪が赦されることとは、表裏一体であると語ります。「隣人から受けた不正を赦せ。そうすれば、/願い求めるとき、お前の罪は赦される。人が互いに怒りを抱き合っていながら、/どうして主からいやしを期待できようか」。(28・4)
このように聖書が語る真の赦しは、いわゆる水に流すこととは違います。私たちは、一旦してしまったことを、なかったことにすることはできません。特に、自由意志に基づいて行ったものであれば、当然そこには責任が伴います。
また真の赦しは、単なる感情に基づくものではありません。人間は、感情のレベルでは、誰かを心から赦すことはできないでしょう。真の赦しは、真の愛(アガペー)がそうであるように、感情をはるかに超えています。人間同士の間に生まれる不思議な出来事です。その意味で、それは、奇跡と言ってもいいかもしれません。
パウロは、晩年、次のように語りました。「わたしは自分の望む善は行わず、望まない悪を行っている」(ローマ7・19)――これが、私たちの現実です。実に弱く不確かな存在です。そのような私たちに求められる姿――それは、どのようなものでしょうか。「互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい」。(エフェソ4・32)