ある霊的指導者はこんな話を紹介しています。神と人とは見えない糸で結ばれていて、人は罪を犯すたびに糸を断ち切るが、神はつなぎとめようと再び結びなおす。そのたびに糸の結び目ができて糸が短くなり、神と人とは互いに近づいてゆく。
おそらくその結び目の中心には神の赦しがあり、他方で人には心からの悔い改めがあり、神の無限に広い心、人のことばを超えるほどのよき心でつなぎとめられるのでしょう。
この話では、「神は、聖人たちよりも、むしろ罪人の近くにおられる」と言いたいようです。確かに放蕩息子の譬え(ルカ15章)を読むと、神は回心した罪人に心を砕いているようです。99匹の羊よりも迷子になった1匹の羊の方に、または失われた1枚の銀貨の方に躍起となっている様子が描かれます。
旧約の物語でも確かに神と人間との関係が直接的に、ゆるしと回心の場面として描かれています。例えば、ダビデは部下とその妻に対して不義を働きますが、それもなぜか神に対する罪として描かれます。ダビデは究極的な宇宙の支配者なる神を認めると、即座に「わたしは主に罪を犯した」と告白し、罪が取り除かれます。
他方で、ウリヤやバト=シェバへの詫びや悔いについてははっきりと記述されていません。
ユダにしても、掟に反して自らの三男を嫁のタマルに与えませんが、自らの咎に気づかされると、即座に「彼女の方が正しい」と認めます。それでもなぜかユダがタマルに直接に詫びを入れたという描写はありません。(参 創世記38章)
聖書が書かれ編纂されるまでには長き年月にわたって様々ないきさつがありますが、人間同士の物語にあっても、罪とそのゆるしが、神と人との究極的な関係で捉えられ強調される点は、とても興味深いです。
*冒頭の話の出典:「沈黙の泉」(アントニー・デ・メロ 著)