「神父様は優しすぎる」と、ある子どもから言われました。
小学校で、掃除の時間に子どもたちを手伝っていたときのことです。特別なことは何もしていないのですが、突然そのように言われて、「そうかな?」と一言返すと「うん」と言います。その言い方からしてあまりいい意味でもないような感じがして、その後しばらく何のことかと考えていました。
思い返すと、なかなか掃除の進まない他の子たちを主に手伝って、その子は自分でできていたのであまり手伝わなかったのですが、どうもそれが理由だったようです。その子にしてみれば、なぜ他の子だけが手伝ってもらっているのか、という印象を受けたのかもしれません。
喜ばせるために、褒められるために、叱られないために、子どもたちは健気です。子どもたちは、自分なりに筋を通そうとします。フェアでないと感じると、すぐに訴え出るか、少なくとも顔に出ます。がんばっている子は、がんばっているだけに、なかなか人をゆるすことが難しいようです。それでも「がんばる」、つまり「我を張る」ことを続けると、だんだん自分もまわりも苦しくなってしまいます。
わたしの祖母はがんばりやさんで、自分にも人にも厳しい人でした。それだけに周囲との軋轢も多く、周りの人も自分も苦労したようです。
祖母は晩年、病床で様々なことを思い起こし、祈りながら、ぽつりと「ゆるさんといけんのやろうね」と呟いていたと、母から聞きました。
けれども、若い頃はとても嫌でケンカの種だったという、祖父のユーモアたっぷりの冗談で笑うようになった祖母の姿を見て、神は、あきらめず祈る人に、「ゆるし」という人生の最高の実りを与えてくださるとわたしは信じさせてもらいました。