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ゆるし

黒岩 英臣

今日の心の糧イメージ

 私は、世界的に有名な、例えばドストエフスキーとかトルストイの文学作品をなんとか通読したいものと思っています。ところが、手をつけるたびに、読破どころか数ページで諦めてしまい・・というのも、何しろ登場人物の名前が長すぎて、その人物と出来事との関係がつかみ切れないからでした。

 これに似たような現象が、聖書を読もうとする皆さんの上にも起きないでしょうか。

 聖書の場合、人の名前が分かりにくいという原因であるよりも、例えば「あなたの罪を悔い改めなさい」との神様の呼びかけが、繰り返し出てきますが、これが多くの人にわかりにくい印象を与えてしまうのかも知れません。

 現代人の多くは、罪と言えば、法律に触れなければ、また警察の厄介にでもならなければ、自分の身に罪があるとは思えないのが、まず普通でしょう。

 しかし、聖書は全ての人が神様のみ前に罪があると言います。ここで「罪」といわれる状態は、あくまでも私を愛してくださる神様に対してそういう暖かい関係を喜ばないこと、または感謝の代わりに目をそらすことなどから起きる、神様との関係の悪化を指しています。

 このような状態の私達を、神様は繰り返し赦そうとなさいます。人間がこの救いに相応しく行動出来たからではなく、神様は赦したい方だからなのです。

 ルカによれば「言っておくが、一人の罪人が悔い改めれば、神の天使たちの間に喜びがある」とのことです。(15・10)

 この記事のすぐ後に「放蕩息子のたとえ」が続きます。この息子は父からの好意だった財産を使い果たしてしまった時、「お父さんに済まなかった」との心からの思いが生じるのです。(参 15・11~21)

 そして息子がまだ一言も謝らないうちに、父は息子を抱きしめる、つまり赦しているのです。