『老子』の中に、次のような言葉があります。「上善は水の如し」(二巻八十一章)。その意味は、「人間の理想的な生き方は、水のように生きることにある」でしょうか。水は、柔軟に自らの形を変え、他と争うことなく自らは低きに留まり、それでいて、硬いものを穿つ強さも秘めています。
この柔軟さは、しかし、日和見的な、あるいは単なる迎合的なあり方ではありません。むしろ、自分を見失うことはないものの、臨機応変にその時々の状況に相対していく、しなやかさです。
私たちは、いったい、どのようにしたら、このような生き方ができるのでしょうか。風に吹かれながらも、それに流されることなく、かえってそれを味わいながら、その流れに身を任せていく、そのような生き方です。
ある夜、ニコデモという一人のユダヤ人が、イエスを訪ねます。彼はそれなりの地位にある教師でした。心の奥では、イエスに惹かれるものを、感じています。その彼に、イエスは、こう語ります。「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」。(ヨハネ3・8)
ここで語られる風とは、神の霊、すなわち聖霊のこと。霊から生まれた者とは真のいのちによって生きる者のことです。
こんな風に自らを託して生きる時、私たちは、真に自由に、また真の喜びの中に生きることができます。
パウロは、こう語ります。「主の霊のおられるところに自由があります」。(2コリント3・17)また、彼は、「霊の思いは命と平和」である、とも語ります。(ローマ8・6)
「上善如水」――越後湯沢が生んだ、一つの恵み。衒いのない、淡麗で爽やかな後味のする、日本酒です。結構、いけます。