委ねるというのは、私がキリスト教を学ぶときに最も難しいと感じる教えの一つです。
イエスは、明日のことは思い煩わずに神様に委ねなさいと教える一方(参 マタイ6・34)神様にもらった「タレント」を土に埋めておくようなことをせず、しっかり活かして増やしなさいとも説いています。(同25・14~30)この二つの教えは、一見矛盾しているかのようにさえ思えます。なるようにしかならないと考えて行動や自分の意思を封印し、全てを神様に任せれば良いのか、あるいは動き続けないといけないのか、現実の生活でこの一線を引くのは大変難しいと思うのです。
そんな疑問に、ヒントが与えられました。テレビの料理番組で、「ここからは余熱で火を通し、冷ましながら味を染みさせます」という説明を聞いたのです。
素材を下ごしらえし、適切な加熱をし、調味してさらに加熱。でもその後、一瞬火を止めて食材を休ませながら、余熱と冷ましによって中心までしっかり火と味を通す。その後、再加熱するものもあれば、そのまま盛り付けるものもあります。調理の段階では手を動かして食材に働きかけるのですが、その後の余熱と冷ましの行程では、あえて手を加えず、料理の完成を見守ることになります。まさに「委ねる」わけです。
私は、イエスの二つの教えはこの「余熱と冷やし」の考え方なのかも、と思い当たりました。手を止めずに努力を続ける、でもあるところではがっつり立ち止まり、神様との時間を取って導きをいただく。そしてまた歩みだす。神様が余熱や冷却作用によって、その後の歩みを助けてくださる。これが委ねるという感覚ではないかと。
どこで余熱に切り替えるか、それもまた、神様との阿吽の呼吸になるのでしょう。