お互いの存在を認め合い、意見をよく聴き、アイデアや情報や力を分かち合う事なしには、神の国の建設は難しくなると思います。
修道生活も正にこれです。
修道院は神の国の小さな現実の世界として、個々の存在を認めつつ、意識して神様と修道家族一人一人の尊厳を保っている世界だと思います。
全くの赤の他人が、キリストによって、キリストと共に、キリストのうちに、共同で衣食住を共にしながら神様の存在を伝えるのです。
気心知れた家族でも喧嘩があり、嫉妬することがあるのに、赤の他人では尚更と思うのですが、神の恵みによってそれが可能なのです。
共有し助け合う事で、神の国の現存を証ししているかのように思われます。
わたしたち一人一人のうちに働いて下さる神様に全てを委ねながら、神の御旨を祈り、完全に一致して働きたいと思っています。
けれど難しい時があります。自分の中にある自我、理想、合理主義、私中心の考えと行動が、気づかぬうちに入り込んできます。
特に黙想の時、何かのタイミングで「ハッ」と気づきます。
「待てよ。これでいいのか? 私」「このままでいいのか? 私」と。
気づいても素直に謝れない私の姿があるし、謝るのも感謝をするのも愛と勇気が必要で、信仰と力量が試されている気がします。
共に住むこの地球上の何処かで戦争が絶えない理由は、これではないかと思います。自分の過ちを素直に謝れず、その責任を他人になすりつけている結果、絶え間なく続く戦争ではないかと思うのです。
残念ながらそれは他の誰でもない私です。一番近くで一番の邪魔をするのは私です。自分一人では生きていけないと知りながら・・・。
この私の上に素直に謝れる恵みを下さい。