福岡と東京で過ごした神学生時代、殆どが日本人の神学生の中に、日本の教会での奉仕のために、ベトナムや韓国から来られた神学生がいました。お互い悪気はなかったと思いますが、生活習慣や文化の違いからでしょうか、行動や考えがかみ合わず、すれ違う場面を体験しました。そんな私たちに院長の神父様はおっしゃいました。「自分たちと異質な人が共同体の中にいてくれるのは、とても有り難いことだよ」と。
お互いの「違い」を通して、私たちは日頃見失いがちな大切なことに気づき、そのことは、より深く他者を理解し、生かし合うことへと意識を向けてくれます。しかし未熟だった私はかつて、対立と衝突の多い共同体の中で何も言えず、「多様性における一致」という理想が如何に難しいことかと苦しんだことがありました。
今の世界を見回しても、協調ではなく、自分たちの立場や利益だけを優先する度に分断や分裂が起こり、人々の平和な暮らしや国家間の調和は破壊され続けていると思います。
3年前、教皇フランシスコは東京で青年との集いを持たれ、いじめと差別の経験を分かち合ってくれた青年におっしゃいました。「いじめる側こそ、本当は弱虫で、臆病者です。」「自分とは違うとみなすや攻撃するのは、違いは脅威だと思うからです」と。恐れは愛と平和の敵。
イエスさまは「恐れることはない」とおっしゃいます。なぜなら「完全な愛は恐れを締め出す」からですと。
宗教は恐怖、分断、対立ではなく、寛容、調和、いつくしみを教えるもの。また神が三位一体であるのは、神は愛の交わりそのものだからです。
神からの賜物である私たちが、お互いを生かし合うことができますように。