私には好きな言葉は沢山あるが、その中でも年々、「好き」が「大好き」になるのが『おたがいさま』という言葉である。
この言葉は幼少の頃から、生まれ育った五島でよく聞かされた。
母の所へお米を借りに来た人が「すんません、いつも頼み事ばっかりで」と申し訳なさそうに言うと、母は「何の何の、おたがいさまたいね、わたしがまた、いつなんどきお金を借りに行くかわからんけんね」と言っていた。
「自分の家だけ助かってもいなかとよ。みんな揃って助からんばね」というのが父母の考えであった。
子育ても同様で「うちの子がようなる事はみんなの子どもがようなること、みんなの子どもがようなることは、うちの子もようなること」と言っていた。
決してぬけがけ根性などなく、みんな揃ってよくなることを願っていた。
その考えをどんどん広げていくと、自分の町がよくなることは他の町も良くなること、自分の国がよくなることは、他の国も良くなることと思えるのである。
「隣の家に蔵が建つと腹が立つ」という心の狭い考えの言葉があるらしいが、その言葉は「共存共栄」から最も遠い言葉ではないだろうか。
隣の家に蔵が建ったら心から喜んであげ、自分たちもそれに頑張ってあやかろうと思った方がどんなに幸福なことだろう。
要は、この世での富の共存共栄ではなく、心の共存共栄こそ、神さまの最も喜ばれることではないかと私は思う。
「おたがいさま」と相手をいたわりゆるす、このことがまた、自分も相手からいたわりゆるされることにつながるとつくづく思う。