「越後屋、お主も悪よのう。」「いえいえ、お代官様ほどでは。」
いつの世も、人は持ちつ持たれつ、お互い様で、助け合って生きています。ただ残念なことは、その助け合いの輪が小さすぎたり、なかなか広がらなかったりすることです。
越後屋さんとお代官が仲良く助け合うのはよいのですが、その他の人の痛みや苦しみを慮ることがないのは困りものです。
ところで、聖書にはこれに似て非なる、イエスが語る不思議なたとえ話が記されています。いわゆる「不正な管理人」のたとえです。(参 ルカ16・1~8)
ある金持ちの財産の管理を任されている人が、主人の財産をちょろまかしていたことがばれてしまいそうになりました。そこで彼はひらめきました。なんと、この不正な管理人は、主人に借りがある人たちを一人ずつ呼び出し、証文を書き直させて彼らの借金を減らしてやることで彼らの友となり、万が一クビになっても転がり込むことができる場所を作ってしまうのです。しかも、それに気づいた主人は、怒るどころか、この管理人の「抜け目のないやり方をほめた」というオチです。
なんだか腑に落ちない話です。しかし、よくみると、ほめられているのは、不正に不正を重ねたその悪行ではありません。この人が生きるために必死になって、与えられた知恵と力を「抜け目なく」めいっぱい働かせているところです。
「越後屋、お主も必死よのう。」「いえいえ、お代官様ほどでは。」
みんなそれぞれ不安を抱えながらも一生懸命生きているんだな。そんな共感の輪が少しずつでも広がれば、もっと多くの人と、ちょっと苦手なその人や、あまり好きになれないあの人とも、もっと助け合おうという気持ちが、おのずと芽生えたりするのかもしれません。