人の日常には、ささやかな喜びが散りばめられているものだ。丹精している鉢植えに蕾がつけば嬉しく、花がひらけばまた嬉しい。喜びは、そのつもりになって数えれば、数えるほど沢山私たちのそばにある。そして、「喜びの日」と呼びたいような特別な日が、思いがけない時に訪れて来て、私たちの人生を一変させてくれるようだ。
トルーマン・カポーティの短篇「クリスマスの思い出」には、年をとっても子どものように無邪気な「おばちゃん」が描かれる。おばちゃんにとって、クリスマスは聖誕を祝い、人々との間に、信頼と愛情を確かめ合う大事な季節なのだ。今年も、親しい人たちにフルーツケーキを焼いて郵送し、世話になっている親戚たちには贈り物を手作りする。それなのに、大きな農場を経営して、裕福なはずの親戚たちからは、ひとかけらの愛情も示されなかった。
でもクリスマス当日の朝、牧場の美しい景色を見晴らし、おばちゃんは大きな喜びの贈り物を受け取っていたことを知る。
「散々病気をして死んでからでないと、人間は、神様に会えないものだと思っていたよ。何て馬鹿だったんだろう。今やっと分かった。私たちが生きている間から、神様は姿を現しておいでになる。ほら、ありのままのこの世界。私たちが見ているすべてが、神様のお姿だったんだよ」と。
悲しみを数えると、日々の光景は寂しく苦しいばかりになる。クリスマスの贈り物をくれなかった人ではなく、くれた人を数えれば、喜びは増えていくだろう。そして、この世界が、実は神の優しい両手であり、暖かい微笑であること、一人ひとりに贈り物が差し出されていることを知る時、その日は喜びの日になることだろう。