神父になる前、神学生とよばれていた頃、よく寝坊をしました。あまりにもその寝坊の度合いがひどくて、「松浦君、今週は何勝何敗だった?」と先輩からいつも冷やかされていました。毎日朝早くから礼拝する予定だったのですが、1週間に1度も寝坊したことがない週は皆無の状態でした。
それを見た後輩は、私の神父になる叙階式のビデオ番組を作るときに、私がまた寝坊してしまったという映像を入れることを提案し、その通りになってしまいました。
そんなとき、私の指導者から忠告が入りました。「松浦君、君はよく朝寝坊をするけど、大切な日、例えばハイキングや旅行の時は必ず朝寝坊しないことを知っていますか。」「えっ、そんなこと考えたことがないですよ」と私は答えたのですが、振り返ってみるとその指導者の言うとおりだったのです。
その指導者はこう続けました。「何か大切だと思われる日は、しっかりと起きているのに、何もない日は朝寝坊する。気持ちの問題ですね」と。
よく考えると、小学生の高学年になって、教会の朝早い礼拝式で侍者という役割が割り当てられ、めんどくさいなあといつも思っていたのですが、クリスマスの真夜中のミサには、寒い中を自転車で30分以上かかって通うことが喜びだったことを思い出しました。
多分、一日何もない日と思っているのと、今日は特別な事が起こる日だと思うのとは、生き方に差が出てくるのでしょう。
その指導者から言われた言葉は、一日一日を私の特別な日として生きる生き方のヒントを与えられたように感じます。「クリスマスの日」を喜んで、教会の礼拝式に駆けつける私の子供の時の思い出と共に。