「気づき」というのは、一種のさとりではないでしょうか。単に「知る」とか、「理解する」とかとは違う感じがしないでしょうか。
若い時には分かりませんでしたが、修道院でいささか修行して半世紀以上になりますと、ふと気づくことがあります。例えば、何かを学んで知るという学習ではなく、すでに知っていることを想い出すという意味で、ギリシャの哲学者プラトンが言った「想起」にあたるかもしれません。
わたしは聖書を読み、多少神学も勉強しましたが、大学で人間学を教えていた時には、人間って一体何だろうと、始終考えていました。
ある時、旧約聖書の創世記の初めに、「神さまは最後に、人を神にかたどり、神に似せて造られた」という言葉に出会いました。(1.26)
その瞬間、人というのは、神の似像(じぞう)、つまり神の似姿なんだという事実に気づきました。聖書を学んで、外部から取り入れた知識ではなく、人間は本来神に近いものなのだという真実に気づいたのです。その時に感じた喜びは、霊的歓喜というべきもので、単なる感情による喜びではありませんでした。真実を想い出す、これが気づきではないでしょうか。
卑近な喩えかもしれませんが、山道を歩いていて、ふとある鉱石を見つけます。それを単なる石ころと思ったら、そのまま捨てて帰ったことでしょう。しかし、かつてイスラエルのダイヤモンド工房を見学したことがあるので、普通の石ころに見える鉱石も一生懸命に研磨していると、何か光るものがあるのに気づきます。これこそがダイヤモンドの鉱石なのです。その石を90何パーセントも研磨し続けてはじめて、ダイヤモンドになるのだそうです。自分の中のダイヤモンドに気づくことです。