正直に申し上げますと、私は18歳で洗礼を受けたときの感激はありましたが、心の平安、すなわち「安らぎ」というものがどういうものか経験したことがありませんでした。
それを経験したのは、25歳で、ある修道会の修練院に入って、修練を行っている時でした。昔の修練とは、数名の修錬者との共同生活、沈黙、ミサ、黙想、作業など、また外部との接触は全く無しで、2年間過ごすのでした。面白いことや楽しいことなど、あるはずがありません。ただ、我慢するだけでした。それが2年間の修練を終え、誓願を立てて、一応正式の修道者になれたのは、私の場合、ある時、何ともいえない、心の平安を経験したからでした。
外部の状況はまったく普段と変わりませんが、内心、何ともいえない平安の甘美さを味わっていたのです。
これはむろん、神さまのまったくの恩恵と思いますが、とにかく「何て安らぎって甘美なんだろう」という経験でした。今で言うなら、一種の神体験といってもいいかと思います。神の体験は、愛、喜び、平安、自由などで自覚されます。それを得たければ、現世のもの、特にカネ、快楽、名誉、権力などに対する執着を捨てなければなりません。持つのがいけないのではなく、執着することがいけないのです。
聖書になぜ、「心の貧しい人びとは、幸いである、天の国はその人たちのものである。」とあるのでしょうか。(マタイ5・3)
何ものにも囚われない自由な人の心には、深い安らぎが経験されるでしょう。それがこの世における天国なのです。
自分の魂に沈潜することを実践すれば、それが分かるでしょう。