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ときめき

堀 妙子

今日の心の糧イメージ

 以前、帝国劇場で上演された秋元松代作、蜷川幸雄演出の『近松心中物語 それは恋』に出演している時、私の出番は幕開きの3分、それも舞台奥の廓の二階のセットに座り、それから立ち上がり、あたりを眺める太夫の役だった。序幕に出演後はオーラスの3分に出演。

 だからといって私は暇だったわけではない。毎回ときめきがあった。なぜなら客席、舞台、舞台の裏側、照明、奈落の仕掛けまでのすべてを観察する時間があったからだ。

 私は劇の構造を見るため、楽屋で休むことはなかった。特に梅川役の女優、忠兵衛役の俳優が吹雪の中で折り重なるように心中するのだが、そのたたみ一畳分が舞台から下がっていくのを毎回見た。どこまで降りていくのだろうとエレベーターに乗って地下6階まで降りてみた。それは暗い奈落の鉄骨の間を降下し、地下六階で止まった。二人の俳優は、紙の雪を払いながら出てきて、また主役の俳優が使う楽屋に、エレベーターで戻って行った。私はなぜか奈落がいちばんときめいた。

 あの舞台に出てから何十年と経った今になって、友人からのメールによって奈落は陰府と同じだと気付いた。「イエス様は、墓に納められてご復活されるまで、私たちの前からいなくなられました。その間、どこに行っていたか?お休みされていた?いえいえ、死者の国に行って、救われるべき人たち、イエス様のひつじたちを集めに行かれていたのです」。

 ミサの式次第を読むと、司祭の説教のあとに信仰宣言を唱える。
 その「使徒信条」には「十字架につけられて死に、葬られ、陰府に下り、三日目に死者のうちから復活し」とある。私は劇場のインテグラルな世界と共に、奈落、死者の国を巡るイエスにときめいていた。