人はいつ、どんな時、ときめくのだろう?私自身の場合で考えてみた。
あるとき、害虫で枯れかけていた花が、愛情込めた手入れによって息を吹き返した。そのとき私はときめいた。
花はその植物のいのちの勲章。どの花も違っていて美しい。小さな路端の草でさえ、時が来れば自分の花を咲かせて種を創り、いのちを繋いでいる。
初恋の甘く切ないときめきも忘れられない。文豪の名作は世界中の読者をときめかせている。
私は星を見るのが好きだ。何億光年の宇宙の彼方からの光に「永遠」の神秘を感じる。幼い時に両親を失い、人の命のはかなさを骨の髄に染み込ませて育ったせいかもしれない。
結婚して長女をカトリックの幼稚園に入れたのが縁でイエス・キリストを知った。
彼の説く神は永遠で、その言葉は私の魂の中核をときめかす。正しい事を悟らしめ、より良く生きようと心が高められる。
迷った末、私は夫と二人の子供と一家で洗礼を受けた。
しかし未熟な私は、60年経った今もよく迷う。だが天を仰いでイエス様に祈ると、どんな時でも神に愛されていることを悟り、全てを委ねると安心し喜びと勇気が湧いてくる。
「誰でも疲れた人は私のところに来なさい。休ませてあげよう。」(参 マタイ11・28)
救い主として世に来られた神の御子イエス・キリストの言葉は、慈しみ深い。
十字架の死から復活し、新しい命で私たちと共に生き、願えば必ず助けて下さるイエス様の密やかなお働きは、満開の花の中に、星の輝きの中に、人々の善意の中にも現れて私をときめかしているのだ。全ては神の愛、イエス様に繋がっている。
老いても「どうか私をときめかせて下さい!」と祈る日々である。