「麗しい」ですぐ思い浮かぶのが、今年春先の、眠い朝のことです。
目覚めたら、もう七時過ぎだった。雨戸を繰ると、寝ぼけ眼に朝陽を浴びて美しく咲いている梅の花が飛び込んできた。
凛としたその咲きぶりに、はっと目が覚めた。
一昨年、害虫がびっしり付いて「もうだめかな?」と庭師さんに言われた。あちこちの梅の木が枯れたようだ。「ダメ元でやってみよう」と懸命に消毒したお陰か、去年の春には奇跡的に若芽を出し、たくさんの花を咲かせ、何と10キロ余りも実が生った。
今年は裏年なので、極端に少ない蕾が、枯れかけた幹や小枝にポツリポツリと申し訳のようについていた。
その蕾たちが一斉に咲いたのである。
数少ない梅の花の一つ一つが、与えられた場所で、寒さの中、懸命に花を咲かせている、その無心で力強い咲きぶりに心打たれ、思わずカメラに収めた。
近くの市営農業センターにはしだれ梅の梅林があり、今年も見事に咲き誇り、テレビのニュースにも映し出されて多くの市民を楽しませていた。そんな梅林の華麗な梅の花とは比べようもない、慎ましく咲いた我が家の梅の花たちだが、その姿には、他と比べて羨ましがったり、己を卑下したりせず、自分に与えられた天性の恵みをしっかり受けて喜び、感謝しているようで、私もこのようでありたいと思った。
イエス様から見れば、世の称賛を浴びている梅林の梅の花も、我が家の哀れっぽい梅の花も皆等しく麗しい大切ないのちなのだ。状態がどうであれ、それぞれに寄り添い、それぞれに必要な恵みを与え、生かし、祝福して下さっている。
その慈しみ溢れる公平無私の愛の真理を、身近に感じさせてくれた、我が家の梅の花たちだった。