私は神父として、また大学の教員として、今まで大勢の人びとにお会いしてきました。それぞれみな良い方で、素晴らしい人でした。けれども麗しい人というのは、多くはいませんでした。麗しい人というのは、容姿端麗で、教養があり、他者思いの優しい気立てのよい女性を思い浮かべるのではないでしょうか。
私は、若い時、そういう女性と出会い、一緒に大学の講義や様々な活動ができたことは、神さまの大きなお恵みだと今でも感謝しています。
先生は、その麗しい魅力で、大勢の有能な大学生をカトリックの信仰に導きました。美しい先生が、教壇から楽しく有意義な講義や講話を毎週なさるのですから、大勢の学生が先生の講義に集まるのは当然でしょう。受講する学生があまり多いので、大学側から人数制限を受けたこともあります。
大学の講義の後は、希望者だけに、ボランティアでキリスト教を教えておられましたが、大勢の優秀な学生が集まりました。そのうちの何人かは信仰の道に入り、私が洗礼を授けましたが、先生が帰天された後も時々集まって、ミサに参加し、先生のためにお祈りするのでした。
先生との想い出は沢山ありますが、ある時、「愛とは、我を忘れて、相手の身になってお話しを聴き、導くことですよ」と言われたことが忘れられません。この言葉は、私自身に対する忠告のつもりでおっしゃったのではないかと思うからです。というのも、ある時、先生は私に向って、「神父様は、自分が一番大事なんですね」と言われたことがあるからです。
先生はどんなときでも、その言葉どおりの、愛の人でした。これこそ、麗しいことではないでしょうか。