私が心から「麗しい」と感じたのは数十年前、ソウシチョウという小鳥に出会ったときでした。当時はペット飼育が許可されていて、私たち家族は延べで一〇羽近くを飼いました。
飼い始めて何日かはおっかなびっくり付き合っていましたが、一週間もすると、彼らはすっかり仲良しの家族になりました。
しかしここで大事なのは、彼らが私たちに懐いたのではなく、むしろ私たちが彼らに懐いた、ということ。彼らは餌をくれる相手として私たちに甘えたり呼びかけたりはしますが、けっして擦り寄って媚びる態度を取らないのです。籠の中にいても羽繕いを怠らず、いつなんどき、何があってもすぐに飛び立てる体勢を保っています。お昼寝中でも夜の睡眠中でも、その緊張感は常に変わらないのでした。
水と餌の取替えや籠掃除のために近付くと、同じ縄張り圏内に住む同居者で、自分の敵ではないと認識していても、必ず一度は緊張した視線を向けてきます。名前を呼ぶと「よし、まだ信頼できるな」と確認できたとばかりに仲良しモードに戻ります。でも仲間とは認識してくれるのです。夜中に地震があったとき、籠を押さえに行くと、人の気配に驚いてバタバタと籠の中で飛ぼうとしたので、「私よ、大丈夫だからね」と話しかけたら、ピタリと落ち着いたこともありました。
ソウシチョウは小さく、生態系では下の位置にいて、日本では外来種として特殊に扱われています。でも彼らは、生き物としての誇りを忘れず、恐れず媚びず、堂々と生きていました。その姿に私は深く打たれ、麗しいと思ったのです。
弱くても、ではなく、弱いからこそ麗しい。その誇りと輝きは限りなく明るいのです。神様がお墨付きをくださった輝きだから。