今この時も世界のあちこちで争いが絶えない。この2月にも、まさかと思いながら見守っているうちに戦争が始まってしまった。
さて、イエスの十字架刑の急展開したきっかけは、最初は細い流れだった。いつしか流れは一つになり激流となった。それまでイエスは、殺そうとする人の間をすり抜けて難を逃れていた。しかしその日は一気に訪れた。大祭司、祭司長、律法学者、長老、偽証人、群衆、ローマ総督ピラト、ヘロデ王、兵士たち...、そしてユダが出そろった。
ユダを手先に使わなくてもイエスを捕まえることはできるはずなのに、事件の始まりにはスターターのピストルのような合図が必要だ。ユダはその役目を担ってしまった。ユダの挨拶を境に一気に破局に向かう。
ユダの挨拶はもっとも悲しい。ユダはイエスに「先生、こんばんは」(マルコ14・45)と言って接吻した。ユダは先生と言ったのに、イエスは違う。
「友よ、しようとしていることをするがよい」(マタイ26・50)、また別の福音箇所では、イエスは「友よ、接吻で人の子を裏切るのか」と言った。(ルカ22・48)ユダは裏切り者の自分を「友よ」と呼ぶイエスの最上の愛に心底後悔しただろう。
ユダは祭司長たちのところへ銀貨30枚を返しに行くが相手にされず、神殿に銀貨を投げ込んだ。しかし、ユダはイエスの愛に対して償いようがないと思い、一気に自死に向かってしまう。祭司長たちは神殿に投げ込んだお金を認めず、そのお金で買った土地にユダを葬ることになる。
イエスの逮捕のきっかけとなったユダの挨拶。挨拶は人を陥れるためのものではなく、よい関係性を築くための扉であるはずだ。神さまから遣わされる天使に対して、「お言葉通りになりますように」と聖母のように挨拶を返したい。