「元始有言」と書かれた書が、私の通った中学高校の図書室に飾られていました。初代校長の書で、聖書の「はじめに言葉ありき」を書いたものでした。初めて図書室に入った時に正面にあったその書の存在感を今でも覚えています。
聖書に出て来る「言葉」は神の言葉を意味し、一般的な言語という意味での言葉ではない事を、その後、学校で教わり知るところとなりましたが、図書室という場所に飾られていた事もあり、中学一年の私には、文字通り言語としての言葉を連想させました。
そして、元来の意味を知った今でも、当時の解釈のままで、とても意義のある言葉として自分の中に存在しています。
口にしなくても伝わるもの、「心」こそが大事だというのも真実だと思いますが、同時に言葉にして初めて伝わるものがあることも真実だと思います。そう言う意味で、出会って最初に交わす言葉が挨拶です。
私の母校では挨拶をとても大事にするように教えられました。最寄駅から学校までの通学路を歩く間、追い抜いていく先輩達に対し、その都度立ち止まっては帽子を脱いで「おはようございます」と大きな声で挨拶したのを覚えています。ですから、先輩達の倍近い時間をかけて駅から学校まで歩いたものです。この頃は挨拶を大事にするというよりは、させられていたように思います。
子供から大人へと変わっていく中・高の六年間に体で覚えた習慣というのは抜けないもので、大学に進んでも、海外へ留学しても、自然と気持ちよく挨拶ができる体になっており、周囲から可愛がって頂きました。
人間が獲得した「言葉」というもの、そしてこれを声に出して相手に伝える大切さ、その基本が挨拶であることを体に教え込んでくれた中学高校に改めて感謝です。