私が神父になって初めて赴任した教会には、主任神父の7匹の黒猫が一緒に住んでいました。そしてその主任神父が私に「面白いことだよ」と、猫の真夜中のパーティーの話をしてくれたのです。
その神父が言うには、「猫は昼寝ているが夜行性だから、夜になるとどことなく出かける。それは広場であったり、屋根であったり、物置であったり。そしてそこでじっと、近所の猫が集まるまで、佇んでいる。集まったのを確認すると、何もしないでそれぞれ帰って行く。もし猫をパーティーに集まれないようにすると、猫はひどく落ち着かなくなる。どの猫がいるかの確認は、とっても大切で、猫のために扉に通り道を作る飼い主もいるぐらいだ。」と。 そして、続けて、「自分の存在と他者の存在を確認することはとっても大切なことなんだ」と語ってくれました。 私にとってよっぽど印象的だったのでしょう。40年近く前のこの話を今でも覚えているのですから。 存在を他者から意識されるとき、人間は生きる気力が増していくのでしょうか?私はそう解釈して、神父の養成所「神学院」の責任者に就任してから、毎日欠かさずあることを、あたかも行事の如く行いました。それは職員の方々に、厨房、受付、事務室、財務室、リネン室と、自室から出かけていって挨拶をするということです。 ただ「おはようございます」と挨拶するだけですが、初めの頃は、めんどくさいなあというような挨拶が返ってきました。しかし何年も経つと、私を待っているかのような丁寧な挨拶を返してくださるようになりました。 挨拶の中に、お互いの存在を確認し合い、"自分は生きているのだ"との思いを深めることができたのです。