16歳の秋、長崎五島の福江大火に遭い、生家が全焼した。
生家の近くの坂の上から自分の家が焼けていくのを見た時の悲しみは60年経た今も忘れない。
しかし、悲しい中にも救いはあった。
福江市の中心部がほとんど焼けたので、学校へ行っても被災した友人が多くいた。
あの子もこの子もみんなわたしと同じ悲しみを背負って生きているのだと思えたからだ。
そして、父母は健在であった。
誰ひとり焼死した者もなかった。
父母はこんな大火の中にあって、一人の死者も出てなかったことは、神さまが守ってくれたからだとまず、神様に感謝した。
「物はさ、いつかはなくなるとよ。焼けたらおしまい。じゃけん、これからはさ、物に頼らんと、生きていくために何が必要か、ようよう考えて、自分の身につけんばよ」
その後、浜の埋立地の仮設住宅に移り、六畳一間に一畳の上下の押入れ、一畳の物置き、半畳のトイレ、この空間に一家5人が暮らした。
風呂もなく、水道は共同で外にあった。しかし、母は楽天家。
そんな狭い暮らしになったのに笑って「立って半畳、寝て一畳、じゃけん、うちはあと一畳余るけん、人ば泊らすことはできるとよ」というのだった。
私は毎朝、その仮設住宅の窓から海を眺めた。朝日が輝きながら昇ってくるのを眺めた。そして天地創造の世界を想像するのだった。
火事に遭って物は無くしたが、ぜい沢な日々を過ごせた。
「どこで何に遭っても、心ん中に神さまが住んどったら、いつでも励まし助けてくれるとよ」と父母は力強く子どもたちに教えた。