「一緒に食事の席に着き、イエスがパンを割いてお渡しになったとき二人の目が開けイエスだと分かった」(参 ルカ24・30~31)
エルサレムからエマオまでの長い道のりの途上で、イエス様と語りあった二人の弟子たち。愛するイエス様を目の前にして語りあっていたのに、二人の目は遮られイエス様だとは気づきませんでした。しかし「イエス様だ!」と気づいた時、二人は時を移すことなく、すぐに行動を起こしました。
二人の弟子たちが、喜び勇んで暗い夜道を休むことなく走り続けている姿が、目に浮かぶようです。
私たちは、時間の流れの中で生きています。しかし、過去から未来へ一定の速度、一定の方向に向かって流れる時間の中で、時にエマオの弟子たちがそうであったように、特別な時が刻まれるときがあります。
それは、他の人にとっては取るに足らない出来事であるかもしれません。しかし、私にとっては特別な出来事であり、そのとき刻まれる出来事は、私の思いとは関係なく、ふいに訪れてくるものかもしれません。
みんなが同じ時に、同じような体験をするのではなく、一人ひとりが独特な仕方で、その時を体験するのは、神様が一人ひとりを愛し、その人にとって一番必要な時を見極めてくださっている証しでもあるように思います。
エマオの弟子たちは「イエス様だ」と気づいたとき、すべてを置いて駆け出しました。イエス様に気づかなかったこれまでの歩みを責めるのではなく、イエス様に出会った、というその喜びだけをたずさえて。
神様が与えてくださる"恵みの時"、その時に気づいたら、恐れることなく一歩を踏み出してみたいと思います。神様はその勇気も一緒に与えてくださっていることを信じて。