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無欲無私

黒岩 英臣

今日の心の糧イメージ

 「人に見てもらおうとして、人前で善行をしてはならない。隠れたことを見ておられる父が、あなたに報いて下さるためである」。(参 マタイ6.1~2)

 福音書のこの言葉は、"無欲無私"という私達の理想とも言えるある生き様を、一言で言い表しています。

 私は旅行先で神社・仏閣を見るのが好きですが、社の修理その他にあたって、寄付してくれた人の名前と寄付金額が麗々しく張り出してあります。これだと、そうでなくても人に見てもらいたいという風に受け取られないでしょうか。

 私自身は、先に述べた福音書の精神の方がずっと好きですが、そうは言っても自分は本当にあらゆる場合に無欲無私でいるか、胸を張って断言は出来ません。多分、私の心の深いところで、エデンの園以来言葉巧みに語りかけてくる悪魔と、"これくらいなら"ともっともな理由をつけて取引きしたことがなかったとは絶対言えません。

 先ほど引用した福音書の同じ箇所で、主は人前での善行を避けるようにとの忠告を更に敷衍して、"右の手ですることを左の手に知らせてもいけない"と、驚く他ない徹底ぶりで教えておられます。それもこれも、たとえ人からの賞賛はなくても、神様からの報いこそは望ましいという、この世のではなく、神の国の在り方から来る理由なのです。

 そういう訳で、この世に住む私達がともすれば心地よく感じる、自分が豊かで楽という在り方は、イエス様からたしなめられるのです。あの金持ちで、主の弟子になりたかった青年は、大きな資産を貧しい人々に施してから主のあとに従うようにと諭されたのでした。

 結局彼には出来なかったのですが、では私なら出来るのかと自ら問うと、やはり赤面する他ありません。