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無欲無私

中野 健一郎 神父

今日の心の糧イメージ

 私の前任地の教会では、教会学校の小学生たちは毎年夏休みに、「黙想会」と称して、教会や殉教地を巡礼していました。子どもたちはバス旅行を楽しみ、元気で賑やかですが、聖堂で静かに祈り、相手を思って譲り合う姿勢がもっと身についてほしいと、私は常々願っていました。そんな矢先、教会の近くにある、曹洞宗のお寺がテレビに映りました。そこでは夏休みに座禅会が行われており、教会学校の子と同年代の子たちが、お行儀よく沈黙して座っています。私は感心して、「教会でもこんな黙想会がしたい」と思いました。

 多くの宗教が、「無になる」ことや、「心を空にする」ことの大切さを教えています。キリスト教でも、念禱という沈黙の祈りがあり、その導入として、何も考えず、ただ座るよう、手ほどきを受けたことがありました。

 しかしこの「何も考えない」ことは、意外にもかなり難しく、頭の中には次々と雑念が浮かんできます。更に我が生活場面でも同様で雑念の多くは自分中心のマイナス思考から来ます。そうして後悔や不平が心に積り、愛するバッテリーが切れそうなとき、十字架上のイエスさまを見つめます。罪とは自分にかがむこと、でも愛は他者へと向かうこと。なかなか充電されない我が心の頑なさに呆れつつ、それでも他者へと向かう心を新たにしたいのです。

 数年前に105歳で天に召された医師の日野原重明先生は、子どもたちに言葉を遺しておられます。「自分のために使っている時間を、大きくなったら周りの人のために使ってね。神さまが天秤を持っており、人のために使った時間の多い人が天国に行けるんだよ」と。

 自分の殻を抜け出し、今日も誰かに愛を注ぐことができますように。