随分前に、開業して数年が経過した3月のある日、午前の診療が終了して事務員も帰宅し、私は保育所の健診業務に出るために自院を出ようとしていました。
その時、クリニックの入口に親子が立っていることに気づきました。午前診療に間に合わなかったお子さんが来られたのかなと思いながら表に出ると、お子さんに見覚えは無かったのですが、お母様のお顔は記憶にありました。「先生、覚えていますか? ○○です」とお母様がおっしゃいました。その子は、私が勤務医時代、出生後の状態が良く無く、NICUで私が受け持っていたお子様でした。お子様は6歳になっていて、お顔が分かりませんでしたが、お母様のお顔は直ぐに分かりました。
「先生、お陰様で4月から普通学級で小学校に入学することができることになりました。」と、その事を報告するためにインターネットなどで私の所在を探し当て、会いに来て下さったのでした。私は、小児科医冥利に尽きるとはまさにこのことと思いました。言葉に出来ないほど嬉しかったのを覚えています。
医師でもあり、満洲鉄道初代総裁になった後藤新平の言葉に「金を残して死ぬのは下だ。事業を残して死ぬのは中だ。人を残して死ぬのが上だ。」という私の好きな言葉があります。おそらく、後藤新平が言っていた「人を残す」と言うのは後継者の事なのだろうとは思いますが、私はこの時、この言葉がふと頭に浮かびました。
「欲」から離れられない私には後藤新平の言葉はあまりにも自分と縁遠い「無欲無私」な言葉だと思っていましたが、私生活の中では無理でも、仕事の中でなら少しは無欲無私になれると思った忘れられない出来事でした。