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無欲無私

三宮 麻由子

今日の心の糧イメージ

 無欲無私と聞くと、とかく「柔和で淡白で粛々と振舞う」といったイメージが出てきがちかもしれません。もちろん、第一の意味としてはこれが正しいので、人間としては目指すべき生き方のひとつだと思います。

 同時に、無欲と無気力を混同する危険も意識しておく必要があるでしょう。芸術や仕事をしっかり修めたいと思えば、試練を克服し、自分の弱さに打ち勝とうとする強い思いと行動力が求められます。その気力を「欲」と呼んで否定してしまうと、進歩も向上もできないでしょう。

 「無私」も同じです。私利私欲に囚われた醜い行ないはもとより避けなければなりませんが、「人のために何かしたい」と確固たる「私を持つことは、むしろ好ましいのではないでしょうか。「無私」は、私という「個」を封印することではなく、他者に対して「公明正大」な状態を指すのではないかと思います。

 イエス・キリストは、「私は柔和なもの」だと明言しました。(参 マタイ11・29)その意味では無欲無私だったでしょう。しかし、同時に強い思いがあったはずです。神について語り、信仰を広げ、命を賭して人々の罪を贖うという使命を果たすためには、個としての意識をもたず、無気力な状態でいられるわけがないからです。

 また、イエスはどんな人にも公平に振舞いました。周囲の目をものともせず、蔑まれている人と食事を共にし、罪を犯した人々と積極的に交わりました。人を救うという「個」の思いが明確でなければ、そのような行動はできなかったでしょう。

 無欲無私を、無気力や「かかわらない心」とない交ぜにしないため、私はこの言葉を「まっしぐら」と解釈しています。物事と向き合い、本質を見抜き、正しく選んで行動できたらと願いながら。