「瓜の蔓には茄子はならぬ」といったことわざがあります。「平凡な親からは非凡な子は生まれない」といった意味でしょうか。しかし、その反対のことわざもあります。「鳶が鷹を生む」。次の言葉も、思い浮かびます――「悪い実のなる良い木はなく、また、良い実のなる悪い木もない。木はそれぞれ、その実で分かる」(ルカ6・43~44)
それぞれの実りには、それぞれの「芽生え」があります。いずれにしても、いのちには、それぞれの実りへの可能性があります。大切なのは、その「芽生え」を丁寧に養い育てていくことです。
そのために求められるもの――それが、徳です。徳はまた、私たちをより善い人間にします。平凡ながらも地に足の着いた確かな営みに、憧れます。
「秩序づけられた愛こそ徳の 最高形態である」とアウグスティヌスは語りました。また、トマス・アクィナスによれば、人間の徳は、善い習慣として考えられます。
イエスは自らを、「柔和で心のへりくだった者」(マタイ11・29 )と語りました。「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(ヨハネ13・34)――これは、彼の遺言です。へりくだりや愛は、私たちにとって、最も大切な徳。その人のいのちは、それによっていっそう輝き、その実りをもたらします。
復活は、新たないのちの「芽生え」。私たちは祈ります――「キリストのうちにわたしたちの復活の希望は輝き、死を悲しむ者も、とこしえのいのちの約束によって慰められます。 信じる者にとって、死は滅びではなく、新たないのちへの門であり、地上の生活を終わった後も、天に永遠の住みかが備えられています」(葬儀ミサの叙唱より)