私が洗礼を受けて10数年が経ちます。時々ふと、「私はなぜカトリック信徒になったのか」と思い巡らせることがあります。ふり返ると、洗礼に導かれたのは自分の意思だけではない感覚があり、それは今も続いています。
私が育った鎌倉の実家の目の前には、カトリックの修道院があります。家の門を出ると修道院と教会が目に入り、正午になると鐘の音が近所に響き渡ります。長い年月を経て自分が洗礼を受けるとは思いもしませんでしたが、幼い心のなかで「あの建物は何だろう?」「イエス・キリストって誰だろう?」と、おぼろげに考えたものでした。
その頃に見た二つの夢が記憶に残っています。一つは、イエスが十字架にかけられ処刑されている場面を、少年の私が人垣の間から見ようとしている夢です。もう一つは、深夜にひとりで散歩をしていると広い庭があり、そこにぽつんと立つ十字架が闇のなかで光り輝いている夢です。目が覚めた時の何ともいえない緊張感を思い出すたび、〈あれは信仰への芽生えだったのかもしれない......〉と感じます。
思春期になり、自分の人生の意味を考えていたある日、カトリック信徒の親戚が久々に私の家を訪れました。同居する祖母を連れて修道院と教会へ行くと、「このような素晴らしい場所がご近所なのね」と言ったそうです。それをきっかけに、祖母は修道院に住むシスターと親しくさせていただくようになり、晩年に洗礼を受けました。徐々にシスターと話すようになった私も、やがて信仰へと導かれました。
受洗から今日まで、私は〝本当の時間〟を生きているという実感があります。この私の経験から、それぞれの人生には「準備されているもの」があるのだと思っています。