私が小学生の時、通っていた教会には「土曜学校」という子どものための要理クラスがあった。多くを学んだはずだけれど、記憶はほとんど私の中に溶けてしまって、取り出すことができない。それでも、或る年、復活祭の宝物探しが行われた日のことは、不思議によく覚えている。
その日は、教会の庭に、シスター方が彩色したゆで卵と素敵な物の入った封筒をたくさん隠していて下さった。小学生たちは繁みに潜ったり木の枝に飛びついたりして大喜びだった。ただし、低い場所や分かりやすい場所のものは、小さい子たちのために残しておきなさいと言われていたので、触らなかった。
それから間もなく幼い子どもたちがシスターに連れられて来た。1歳から3歳くらいだったろうか。小学生たちを花のつぼみとするなら、その子どもたちは小さな芽、春の柔らかい芽生えのようだった。そして、幼い子に優しく話しかけたり、抱き上げて卵を持たせたりしているシスターも嬉しそうで、教会の庭は、絵本の美しい1ページに見えた。
その日、小学生の私は「絵のようにきれいで幸福な一日」と思い、でもそれ以上の何かに強く心を揺さぶられていた。そうでなかったら、記憶に刻まれていないだろう。
年を経た今、その「何か」が少しだけ分かった気がする。おそらく私はその時、この地上に芽生えたばかりの生命が、永遠の生命に抱き上げられ、贈り物をもらう光景に感動していたのだ。
私たちは能力の限られた地上の生き物にすぎない。だが永遠の生命に抱き上げられ、その許によみがえる存在でもある。それを思い出す復活祭は、確かに幸福な日なのだった。