住まいから教会まで、裏の土手を登れば1分で行けるので、私は一日に何回かご聖体訪問に行く。小聖堂の聖櫃の前に行き、思いわずらっている問題を告白してその解決を願うのは、1年前からやめた。ただ主イエスの望みを沈黙のうちに願い、帰って来る。自分が願う計画はやがてつぶれ、心にめばえた主イエスのみ旨だけが、弱々しい足取りであっても、実現していく。
ある日の夕方、聖体訪問をするために扉を開けて薄暗い小聖堂の中に入った。すると、柩が安置してあった。天井には五角形の小さいあかりとりがあり、薄暗い中にも一条の光が射し込んでいた。若い母親が1歳ぐらいの男の子を抱いて、ひざまずいていた。「今日の未明に突然死をした」と、亡くなった男性のお姉さまが教えてくれた。私は後ろのほうの椅子に座り、しばらくその場にいた。
この悲しみにあって、幼い男の子はぐずりもせずに母親の腕の中にいて、母子はじっと夫の柩のそばにいる。私は「イエスさま、これがみ旨ですか。残酷ではありませんか?」と聖櫃に向かって心の中で語りかけた。しかし、不思議なことにこの小聖堂の内部は確かな平安があった。
しばらくして、私は小聖堂の扉を開けて外に出た。冷たい風が吹いていて、現実に戻った。土手を降り、部屋に戻るとあの小聖堂の中を満たしていた不思議なエネルギーを思い出した。死生学者のエリザベス・キュブラー=ロス博士は、人間の一生を蝶にたとえた。「卵がかえり芋虫になる。この芋虫の状態が人間の一生、そしてさなぎの状態が、永遠の命を得る前の兆しで、天国で美しい蝶になる」と。悲しみに暮れているかのように見える母子は、永遠の命に入ろうとするめばえを見つめていたのだ。