カトリックのミサで印象的なのは、「希望」、「望み」といった未来志向の言葉が多く話されることです。「復活の希望」、「神を待ち望む」という言葉が有名です。
イエスの言葉にも、現在を直視する厳しさと同時に、常に未来を意識する話し方が見られます。「私は十字架にかけられるが三日後に復活する」(参 マタイ20・19)という予告もその一つ。最も厳しい現実をまざまざと突きつけておきながらも、その先にある未来はそれを凌駕する素晴らしいものだと教え、希望を持つよう促しているのです。
神様を信じていると、心の中ではリアルにその存在を感じることが頻繁にあります。一方で、そこにおられるはずなのに、どうしても会えないというジレンマに陥ることも頻発します。ミサで言われる「希望」、「待ち望む」は、こうしたジレンマが少しでも少なくなるよう、神様にもっともっと姿を現してくださいとお願いする言葉のような気がします。ミサの場合、このお願いの後で神様は、聖体の姿で私たちの中に入ってきてくださいます。
でも現実には、四六時中ミサに与り神様の姿を確認することはできません。そんな私たちに、神様が明確なサインを送ってくださる時期があります。クリスマスは最大の「サインシーズン」ですが、同じく、復活祭も、大きなサインシーズンです。誕生の時期であるクリスマスより、復活の奇跡が記念されるイースターのほうが強いサインシーズンと感じる人も少なくないでしょう。
北半球では、復活祭は芽生えの時期です。可愛らしい草木の芽の先にそっと指先で触れると、ちょっとヒヤリとする小さな先っぽを通して、神様が「やあ、ここにいるよ」と答えてくださるかもしれません。