私のいる神学院は、各地の教会本部からくる神父候補者の研修場なのですが、待っているだけではなく、積極的に候補者育成をしてもよいのではとの議論が先日の会議でありました。
話し込んでいくと、過去50年の間に、この様な動きが現れては消え、現れては消えの連続だったことが判りました。中心となる人またはグループが活躍する間はよいが、それがなくなると自然消滅するというわけです。
その時、阪神淡路大震災の時の事を思い出しました。私は、修道会から転籍して間なしに、救援本部長に任命されました。そして闇雲に、救援を指示している私に対して、若者達からお叱りを受けたのです。
「松浦さんは長なのだから、メモを片手に、集まってくる情報を書きとめ、本部にいつもいて、その情報を判断して下さい」。
「なるほど」と私は若者の視点に感心したのです。
それで、援助本部にじっと待機し、現場からの報告を受け、新聞記事の情報を集めるのが務めとなりました。そして現場に立っていないという悶々たる思いの中にいた時、一つの新聞記事が目にとまりました。
それは、意気揚々の個人ボランティアはその感情にまかせて神戸に来るのは良いが、燃え尽き現象から3日、3週間、3ヶ月という節目に、限界を感じて、帰ってしまう、だから本部機能が大切だという記事です。
人々と長く寄り添うためには、個人の感情だけではなく、広い視野で方向性を見つめ、多くの人が協力して動けるように、組織とその本部機能が持続性を担保するというものでした。
その記事を読んでから、私の鬱積した気持ちが晴れていったことを思い出します。地道な中にも、未来を見つめていく視野と熱意の力強さの味を感じたときでした。