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共生社会

中野 健一郎 神父

今日の心の糧イメージ

 昨年夏に開催された東京パラリンピックは、誰もが受け入れられ、活躍できる「共生社会」の実現を訴えるものでした。障害を持って活躍する選手の輝く姿に、多くの人が勇気づけられました。性別、人種、地位や障害の有無など、違いは多様性として受け入れ合えるならば、私たちはどんなに懐の豊かな者となれることでしょうか。

 知的、情緒的面で障害を持つ私の弟は、小学生の頃、近所の子に砂をかけられ、泣いて帰って来ることがありました。その度に私は、「弟は好きでこうなったんじゃない。それが分からず変な目で見る者の方がおかしい」と、怒り心頭でした。でもある日、学校での弟の様子を聞きました。当時、特殊学級と呼ばれるクラスにいた弟は、体育と図工の時間は普通学級に入れてもらっていました。跳び箱の授業では、弟だけが跳べた高さがあり、皆の前でお手本を見せて、拍手喝采を受けたと聞きました。また、弟は手先が器用で、工作で何やら見事に作っていると、周りの子たちが「教えて」とやって来て、取り囲まれていたと聞きました。偏見の目と裏腹に、神さまは弟にも、どんな人にも、素晴らしく輝く才能や賜物をくださっていると私は思いました。

 人間は「神の似姿」と言われます。それは、私たちが無限の神の素晴らしさを分け与えられて創造されただけでなく、"ペルソナ"と呼ばれるひとりの人格として、他者と交わり、響き合うことのできる存在であることも表しています。

 エイレナイオスという古代の教父は、「生きている人間こそ神の栄光であり、人間の命、それは神を見ることだ」と述べています。心を開いて他者と交わり、輝きを見い出すときに、神と隣人に新たに出会えますように。