三つ子の魂百までで、私の場合、人間が生きるのに必要なことは、まだ五島にいた18歳までに学んだと言っていい。
父母の口癖は「一人では生きやえんとよ、世の中、みんなで助け合わんばよ」ということであった。
その言葉通り、我が家には老若男女、健康な人、病気の人、金持ちの人、貧しい人・・・様々な人たちが寝泊まりしたので、世の中の縮図を目のあたりにして育った。
一つの物を半分にしてでも他人に分け与えるのが大好きな父母であった。
もっと置いといて欲しいなと子どもたちが心の中で思ったり、時々は口に出して言うこともあったが、それでも父母はおかまいなし、誰彼となく家にあるものは隠さず、持って帰らすのであった。
その直後には不満で親に文句を言うこともあったが、あ~ら不思議!どこで神さまがご覧になったのか、惜しいと私が思った物が、別の物に代わって我が家へやってくるのであった。
りんごが卵になり、卵が魚になり、魚が野菜になり・・・と、きりが無いくらい、物の循環が起こっていた。
「ほら、見てみらんばよ。神さまはちゃんと見とって、こげんして、また別の物ばくださるとよ。まかぬ種は生えぬっち昔から言うじゃろ、いつでん心がけて、種はまかんばいけんとよ」
私たちきょうだい5人はそのようにして育った。
共生社会、つまり共助の社会が日常の中に息づいていたのであった。
我が家は物の集まる場所。それを母が料理し、みんなにふるまった。
ちゃぶ台を大勢の人で囲んだ宴のひとときがなつかしい。