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共生社会

黒岩 英臣

今日の心の糧イメージ

 早いもので、もう去年のことになってしまったパラリンピックでは、体にハンディキャップを負った選手たちが、オリンピックに引けをとらないのではないかと思わせるほどの大活躍で、多くの人々の熱烈な応援を引きよせたものでした。一昔前だったら、パラリンピックがここまで人気を高めるとは、まず考えにくかったろうと思います。

 およそ私などには信じられない力強さで、次々と記録が更新されました。これを見ながら、たとえハンディキャップを負っても、対象に対して不屈の情熱を持ち続けて、あれほどのことをなし遂げる人々がいるのだと、思わず胸を打たれたものでした。

 こうした望みがあってこそ、それを人類全体で共有しなければとの思いが、社会に浸透してゆくことになるのでしょう。「共生社会」の理念です。誰もが分け隔てなく大事にされ、障害のある人が健常者と共に積極的に参加できる社会です。

 しかし理想はどれだけ気高くても、やはり差別は残ります。

 例えば、イエスが道ばたで目の見えない人を見かけられた時、弟子達は主にこう質問しました。これは根底に差別を含んでいます。「ラビ、(先生、)この人が生まれつき目が見えないのは、誰が罪を犯したからですか?本人ですか。それとも両親ですか?」。(ヨハネ9・2)

 これに対する主の答えこそ、まさに差別を否定するものでした。主は「両親の罪でも、本人の罪でもない、神の業がこの人に現れるためである」と答えられたのです。(同9・3)

 そして土に唾をかけて捏ね、目にぬると、彼は見えるようになったのです。これは、創世記の人間創造と似ています。ここでは、見えることを自分の手柄のように思っていた人には見えない、真の救いをこの人は経験したのでしょう。