大学でメディア論を教えていると、若い人たちが抱える矛盾に直面することがあります。その一つが、バリアフリーをはじめとする共生社会との向き合い方です。
大多数の学生は、たとえばバリアフリーは様々な人の社会参加を助ける「良いもの」と受け止め、できれば協力したいと考えているようです。しかし一定の割合で、「行き過ぎたバリアフリーは助け合いの妨げになるので反対。ハードよりソフトが大事」と反論する学生がいます。
一見正しくも思えますが、討論してみると、実はこう主張する学生はたいてい、自分は共生にかかわりたくないと考えていることが分かってきます。共生すべきという模範解答は知っているので建前上「行き過ぎた」と前置きしてフォローしていますが、言外に「そんなものに巻き込まないでくれ」という本音を覗かせるのです。
実際、バリアフリー設備は「足りない」ことはあっても「行き過ぎる」ほど充実していることはまずないでしょう。この現実を例を挙げて丁寧に説明しても、理解したけどやっぱり反対という学生が残る場合があるのです。
この学生たちは、模範解答を知ったうえでも適用したくないという矛盾をぶつけてきているように、私には思えます。こうした「共生へのアレルギー反応」といえる言動は、特に等質なコミュニティで平穏に育ってきた学生の中に時折見られる気がします。
多様性と一致は国際社会でも目指されていますが、実現のレベルには国や地域で大きな格差があります。日本での共生度を現実に上げていくには、共生すべきと模範解答を突きつける前に、私たち自身が共生の姿を背中で示す必要があると思います。まずは隣人にそっと寄り添うことではないでしょうか。