近年のコロナ禍で改めて気づかされたこと――それは、私たちが当たり前だと(勝手に)思っていた日常生活は、いとも簡単に崩されるということ。そして、その中に生きる私たち自身も、極めて不確かな存在であるということです。しかし、大切なのは、なぜこのような現実に至ったのか、その原因を謙虚に見定めるということです。
このように弱く不確かな私たちは、いったい、どのように生きていったらいいのでしょうか。おそらく、それは、お互いの弱さや欠点を指摘するのではなく、むしろ、それらを補い合い助け合って生きて行くことではないか、と思います。それが、共に生きるということの要です。
私たちは、自分自身のことさえよく分かっていません。ましてや他人をや、です。そのような状況にあって求められること、それが、想像力です。つまり、今、自分の目の前の人は何を見、何を感じ、何を思っているのか。あるいは、何を必要としているのか、それを敏感に感じ取ることです。
そのために、私たちは、まずこの不確かな自分をできるだけ客観的に見、その現実を謙虚に受け容れることを学ばなければなりません。それなしに、私たちは、誰かと共に生きるということはできないでしょう。相手の弱さや欠点を受け容れ合うということは、しかし、安易な妥協とは違います。
ソーシャル・ディスタンス――今回、私たちが何度も耳にした言葉です。しかし、このことと共に暮らすということは、決して矛盾し合うものではありません。そのような状況にあっても、私たちには、互いに思いを馳せ気遣い合うことが可能です。
「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」。(詩編133・1)